※本コラムは、心理学者および臨床心理士によって、日常に役立つであろう心理学の知識を、毎月連載ものとして記載しています。無断の転載や複製は遠慮願います。

ユングの『タイプ論』の淵源をたずねて 13

ユングとゲーテ

ユングは、フロイトとは違い、あまり文学について論考を残していません。また、あまり文学者の話もしませんでした。 これはタイプ論的に見るならば、仮説ではありますが、ユングが「物語」や「人そのもの」への興味関心が薄かった証かもしれませんし、また一方のフロイトは、「家族の物語」に惹かれたり(ファミリー・ロマンスという、精神分析理論があります)、少し変形ですが「エディプスコンプレックス」という概念を考えたりしたのも、かれのタイプに起因するのかもしれません。

少し脱線しますが、ある人が自分の研究分野や専門分野を選択するにあたって、その選択する研究目的や研究対象、その研究方法それ自体なども、よく注意してさぐっていくと、その人のタイプと大いに関係することがあるように思われます。

ここでは、具体例をあげる紙面はありませんが、たとえば、NFは「人間関係を中心とした物語性」(小説)にひかれ、NTは「概念同士の関係性やその定義など」(哲学)にひかれるというのは納得のいくところです。もちろん、小説家にも哲学者にもどのタイプも当然いて、NFの哲学者であれば、NFらしい切り口(不可知論かも知れません)で特徴ある哲学を展開したりするでしょうし、NTの小説家であれば、かなり哲学的な思弁的な物語を紡ぐかも知れません。SFであれば、ヒューマンなノンフィクションでしょうか、STは「実用的で、実際に役に立つこと」に焦点を当てますから、「フィクション」を創作する小説家は少数派となるでしょう。また、哲学もSTならではの「概念ではなく、実用的な面からの示唆」が特徴の論を展開するかもしれません。

以上、理論にのっとって、このように、小説や哲学書なども内容のタイプウォッチングをしながら読むと往々にして著者のタイプも浮かびあがってくるかもしれません。タイプ言語が同じ著者の本が読みやすかったり、内容がすっと理解できたりするときは、同じタイプかもと考えたり、読者も楽しさがますことが起こることも期待できるでしょう。閑話休題。

ユングと『ファウスト』

さて、みなさんは、18世紀後半から19世紀の前半に活躍したゲーテというドイツの文学者について、どんな仕事をしたかをご存じでなくても、おそらく名前は聞いたことがあるでしょう。とはいえ、その著書を読んだ人は少ないかもしれません。
というのも、祖国ドイツでも最近ではゲーテの本を読んだことのない若者が多くいると聞いています。ゲーテは、18世紀から19世紀に生きた人で(1749~1832)、1774年の25歳のとき発表した、書簡小説『若きヴェルテルの悩み』で、一躍ヨーロッパ中で有名になりました。その後も、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』や『詩と真実』、詩集の『西東詩集』など文学のさまざまなジャンルで数多くの傑作を書き、世界でもよく知られる文学者となりました。

文学の世界で、世界的に名前だけはよく知られていて現在ではあまり読まれることのない本というものがあります。たとえば、シェークスピアの『ハムレット』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』、トルストイの『戦争と平和』当たりでしょうか。日本でいえば、数多くの古典文学などがそれにあたるかもしれません。

そんな本の中に、ゲーテの悲劇とうたった詩劇『ファウスト』が入るのではないでしょうか。もしかしたら、「ゲーテは読んでないけど、手塚治虫の『ファウスト』なら、読みました」という方がいらっしゃるかもしれませんね。(蛇足ながら、手塚は、『ファウスト』をもとに、「ファウスト」「百物語」「ネオ・ファウスト」(絶筆未完)の3回、この原作に挑んでいます。『ブッダ』とか『火の鳥』、また『ブラックジャック』とか、手塚の漫画を読むとき、この事実は、とても深い思索をももたらすようです。)

さて、ようやくユングと『ファウスト』のことを、短くですがご紹介します。
ユングは「まだ学童期のころ、母親に勧められて読んで、それ以来、その虜になってしまい、大学生の時には、自分にとって「ファウスト」(主人公)は自分にとって聖書のキリストより大きな意味を持つようになった」とさえ、『自伝』の中で語っています。
またあるとき、マックス・リュヒュナーという作家の質問に対して、「ごくわずかの詩を除いて、ゲーテの作品では『ファウスト』のみが生きた何かを語ってくれる。」と答えています。ゲーテは、『ファウスト』をごく若いころから(最初の小説『若きヴェルテルの悩み』を出版した25歳から、死ぬまで(84歳)、60年間も書き続けました。一方のユングもまたごく小さい頃に『ファウスト』にであい、生涯を通じて『ファウスト』を読み続けました。そして、自分の考える問題をそこにみいだし、さらに普遍的な「心」を探究する糧ともしました。

それは、生の二元性、人格の分裂、内面の統合といったことにほかなりませんでしたが、ユングは、『ファウスト』やゲーテについて論を本格的に著書として残しませんでした。それは、ユングにとってもう1冊の重要な書、哲学者のニーチェの『ツァラストラはこう語った』について何度も講演し、その講演記録が公刊されているのと好対照です。

ところで、フロイトも『ファウスト』は読んでいるのですが、「第1部」についてのみ言及しています。一方のユングはといえば、「第2部」のみを取り上げ、「第1部」にはほぼ興味を示していません。

これは、『ファウスト』が、1部では、「個人的無意識」を取り扱い、2部では、「集合的無意識」を扱っていて、フロイトとユングの興味関心のありかを反映しているとみられています。

今回は、『ファウスト』のあらすじを端折りましたが、ご興味のある方はぜひお読みいただければと思います。現在、日本語訳は5種類刊行されています。
(以下、次号へつづく。)