ユングの『タイプ論』の淵源をたずねて
はじめに
本コーナーでは、『タイプ論』そのものの源泉をたどり、MBTIで用いられるユングの『タイプ論』中の重要な概念について、ヨーロッパや米国の哲学や心理学に遡って、ご紹介してゆきます。登場する言葉(概念、専門用語)につきましては、できるだけ平易にご説明していきたいと思います。また飽きずに読んでいただけるように、毎回「ほんの一つかみ」程度にします。
さて、MBTIの理論がユングの『タイプ論』をベースにしていることは、皆さんご存知の通りですが、そもそもユングの『タイプ論』ってどんなものか、実際に読まれた方はどのくらいいらっしゃいますでしょうか。
『タイプ論』を(翻訳ですが)実際に手に取ってみると、最初に、ドイツのロマン派の詩人ハインリッヒ・ハイネの「プラトンとアリストテレス」についての文章が、こんなふうに引用されているのを目にされるでしょう。
「プラトンとアリストテレス。これは2つの体系であるのみならず、ずっと昔からあらゆる衣装をまとい、程度の差こそあれ敵対してきた相違なる人間本性の2大類型でもある。」
プラトンとアリストテレスについては、ご存知の方も多いと思いますが、ここで注目したいのでは「2大類型」というところです。ということは、プラトンとアリストテレスは、対極のタイプということなのでしょうか?
この引用文は、次のようにつづきます。
「とくに中世全体を通って、今日に至るまで、まことに熾烈な戦いが行われてきました。(中略)よし名前は変わっていても、問題となるのは、いつもプラトンとアリストテレスである。」
話は古代から中世へ。わずか数行なのに遠大なものに思えてきます。具体的に、さらにこう記されます。
「狂熱的、神秘的、プラトン的本性の持ち主は、その情緒の深淵の中からキリスト教の諸理念とこれらに見合う諸象徴とを啓示する。実践的で秩序付けるアリストテレス的な本性の持ち主はこれらの諸理念と諸象徴とから、ひとつの堅固な体系、ひとつの教義、ひとつの祭式を構築する。(後略)」
なるほど。わかったような、わからないような。
ここまでの叙述で、なんとヨーロッパ哲学の根本が、「2大類型」で展開・発展してきたというざっくりとした捉え方ができることがわかってきます。
(プラトンとアリストテレスの考え方・ものの捉え方については、重要ですので、またいずれ触れます。)
エピグラフの著者、ハイネは、1797年にドイツのデュセルドルフに生まれ、1856年にフランスのパリで亡くなりました。ユングは1865年生まれですから、同時代人ではありませんでしたが、ドイツロマン派の文学や哲学に魅かれ、そこからさまざまな概念を捉え、創造的に組みたてたユングにとって、このハイネの文章との 出会いはとても意味のあるものだったのでしょう。その記念碑として、ユングは、自分の大著『タイプ論』のエピグラフとして引用したのでしょう。
次号につづく。
(引用文は、C.G.ユング著『心理学的類型 Ⅰ』佐藤正樹訳)